あの日あの場所で彼や彼女に出会えたことを、本当に幸運だと思うのだ。
一人一人が毎日を過ごすに連れて、そこに一本ずつの「線」が引かれて、それが時折、偶然交差するイメージを、僕は持っている。
線は、時と場所が織り成す広大な空間を進んでいくもので、交わる線よりも交わらない線の方がずっと多いに違いない。
そして何百億分の1、何千億分の1の確率で交差した時、そこに大きな喜びを見いだす事もあれば、交差したことにすら気づかない事もきっとあるのだろう。
もし毎日が喜ばしい交差の連続だったら、どんなに素晴らしいだろう。
でも人間は悲しいことに、馴れてしまう生き物だ。
だから僕は、つまるところ日本へ帰ろうと思う。
そして再び、つまらない日常を迎えようと思う。
それはきっと、必要な儀式なのだ。
そんなつまらない「日常」が、僕には必要だと思うのだ。
「非日常」に浸り過ぎてしまったら、いつしか「非日常」が「日常」になってしまう。
線と線が交差したことにすら、気づかなくなってしまう。
それはとても贅沢で、とても傲慢なことだと思われるかもしれない。
お金があって、時間があって、いざとなれば「非日常」へ飛び出せるからこそ、そんなことが言えるのかもしれない。
それについて反論する術を、今は持ち合わせない。
ただ、本当はお金や時間を作り出せるにも関わらずそれをしないのは、何か違う気がするのだ。
あえて出来ることをしないのは、いっぱいいっぱいになって日常を向上させようと努力している人たちに対して、憐れみの感情で見下しているような気もするし、希望を奪ってしまうような気もする。
だから、とりあえず自分が出来ることを精一杯するのが最善なのだと思う。
今はそれ以外に解答が見つからない。
そして、「日常」でお腹がいっぱいになった頃、僕はまた「非日常」に逃げ出して、小さな偶然の交差に、大きな喜びを見いだすことができるのだろう。
その喜びを、どのようにすれば自分の成長に活かせるのか、それは分からないが、無いよりはある方がずっとよいものだと、自分では思えるので、自分は幸せだと思う。
こんなことを考えていたら、早く日本へ帰りたくなってきた。
日本にも、会いたい人がたくさんいることを、ふと思い出した。
かけがえのない線と線との偶然の交差が紡ぎ出した、僕が帰る場所。
そんな場所を持つ自分はやはり幸せなのだと、この旅を通して、強く思った。
だから、旅はやめられない。
2004年10月4日 ドンムアン空港のインターネットカフェにて
編集後記(2021年7月13日)
上記は2004年のスリランカ旅行の旅先で書いた手記です。
本ブログでは不定期で「僕らが旅に出る理由」というシリーズの旅コラムを書いていますが、上の手記は同シリーズの主旨に通底する内容であるため、そのシリーズの一編として取り込みました。
また、今思えばこの手記に込められた思いは、本ブログの共通テーマである「非日常を楽しむ事で日常に潤いを与えたい」という主旨に繋がっているんだろうな、と感じます。
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