ニゴンボ市街地のネットカフェでは日本語が使えない(読めるけど書けない:2004年当時)ということを学んだ後、再び砂浜に出てホテルへの道を引き返すこととする。
往路は民家での雨宿りやオハジキビリヤードなどに興じたため3時間ほどかかったが、まっすぐ帰れば2時間と掛からないであろう。それにバンコクへのフライトは深夜3時なので時間には余裕がある。
夕暮れのビーチで同い年の青年達が言ってくれた「We’re Asian!!」
歩いている内にだいぶ日か傾いてきた。適当な砂の上に座り、夕焼けを待つことに。午後5時半。
凧上げに精を出す子供達、サーフィンに興じる西洋人、ビーチバレーを楽しむ青年達。そして刻々と変わりゆく西の空。何時間居たって飽きることはないだろう。
CASIO COMPUTER CO.,LTD EX-P600 (21.3mm, f/5.2, 1/400 sec, ISO0)
CASIO COMPUTER CO.,LTD EX-P600 (28.4mm, f/5.5, 1/200 sec, ISO0)
ホテルに向かって更に歩を進めていくと、ビーチバレーをいそしんでいた青年達と仲良くなった。最初に話しかけてきた青年は、コロンボ在住の26歳の、空港で働く男。僕とちょうど同い年だ。同僚達とニゴンボの海に遊びに来たという。
僕の英語が拙いせいもあり深い話が出来るわけでもないのに、なんとなく雰囲気が心地よいというか、彼らとしばらく隣合わせに座って海を見ていた。スリランカと日本の同年代の青年たちが同じビーチで並んで座り、同じ夕日を眺めるというシチュエーションは、長い歴史の中で果たしてこれまで何度あったのだろうか。
そろそろ空港へ向かわなければならない。別れ際に、彼らがうれしいことを言ってくれた。
「We are Asian!!」
僕は一瞬雷に打たれたように感じた。
もちろん言われてみればそれは当たり前の事なのだが、この遠く離れた馴染みの薄い島国に対してそんな発想を抱いたことの無かった自分を恥じた。
いや、僕だけじゃないだろう。果たして、日本を訪れているスリランカ人旅行者を見て、「We are Asian!!」と言う言葉が自然に口をついて出てくる日本人が何人いるだろうか?
世界一の親日家、ジャヤワルダナ元大統領が紡いだ絆
実は、スリランカの人々はアジアの中でも日本に対して特別な親愛の情を持ってくれていると言われ、それには歴史的な経緯がある。
それは第二次世界大戦後の1951年、サンフランシスコ講和会議の会場まで遡る。会議では敗戦国である日本に対してロシアを始めとする戦勝国が様々な制裁や制約を加える事の是非が議論されていたが、そこで、当時スリランカの大蔵大臣であり後に2代目大統領に就任するジャヤワルダナ氏が述べた演説の内容と、その時の模様を引用したい。
「私は2つの立場からお話します。1つはスリランカを代表して、もう1つはアジアを代表しての立場です」と言い、最も印象的な言葉として、釈迦の「憎悪は憎悪によってではなく慈愛によってのみ止む」を引用して会場に語りかけました。
「戦時中、スリランカは日本によって空爆を受け多大な損害を受けている、補償を受ける権利はあるが、私たちは賠償請求を放棄する。なぜかと言うと、私たちはブッダによって目には目、歯には歯という教育を受けていない。私たちは許す。他の国々もそうしませんか?」と呼びかけたのです。
さらに「日本には何ら制限を加えるべきではない、なぜならアジアの皆がそれを求めていて、それが今後のアジア全体にとってふさわしいことだから」と訴えました。
15分にわたる演説が終わると大きな拍手が沸き起こり、会場の雰囲気が変わりました。出席していた当時の吉田茂首相もその場で涙を流したと言われています。
出典:テレビ静岡
独立後のスリランカの「実質的な初代大統領」とも言われるジャヤワルダナ氏は、1978年に大統領就任後その名が「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ」という首都名にも引用される程国民に慕われると共に、日本にも何度も来訪したり、日本の仏教関係者をスリランカに招くなど両国の友好を深めている。そして有名な「自身の右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言を残している(そして実際に左目の角膜は遺言通り群馬県の女性に移植された)。
そんなジャヤワルダナ氏に育てられたこの国の人々は、日本人が知るよりも遥かに親しい感情を日本に対して抱いているのだろう。
そして恥ずかしながら僕自身も、このビーチでの彼らとの出会いがなければこの事実を知らずに居たかも知れないと思うと、空恐ろしい気持ちにすらなる。知るべき事を知る事が出来たこの旅に、出会いに感謝である。
最後はみんなで写真を撮って、別れた。
荷を預けてある宿で晩飯を食い、これから、空港へ向かう。ある国とお別れをするとき、僕はついついビアーを重ねて注文してしまうため、旅中ダイエットプロジェクトはここで旅とともに幕を降ろすのである。
スリランカへの置き土産は角膜ではなく・・・
スリランカ最後にして最大の難関は、バンコク行きの便が発つまでの約6時間、空港で何をして過ごすかである。キャセイパシフィックのBKK経由香港行き(僕はBKKでドロップ)は午前3時発。何が悲しくてこんな時間にしたのであろうだろうか。
この難題に頭を悩ませながら出発ロビーをぶらついていると、突然頭上から日本語で声を掛けられる。
「あ~、セバナにおったお兄さんやわ~!」
見上げると、二階のレストランから、日本人女性が二人顔を出している。キャンディのセバナゲストハウスの階段ですれ違いざまに挨拶を交した旅行者である。
聞くところによると彼女たちも同じ便らしく、待ちぼうけを満喫しているとのこと。思いがけず良き雑談仲間に恵まれた。お邪魔でないと言うので、お言葉に甘えて待ちぼうけ大会をご一緒させてもらうことに。
しかし筆者はバンコクからUAの成田行きに乗り換えるのでこの便で良いとして、彼女たちはどうするのであろうか、と、答えは単純明解、二人とも香港在住だという。それぞれ香港の会社に勤めているとのこと。なんでも、二人とも香港でカンフーを習っており、そこで知り合ったという。一人は面白いことに、かつて日本で戦隊系のアクションヒーローの仕事をしており、九州地区の遊園地などを回っていたのだとか。これはかなり強めの女性である。見た目は色白で華奢な方なのだが。
もう一人は筆者のようなアジア狂で、最近インドに呼ばれている気がするらしい。次の旧正月に向けてインドへ拉致されてくれる友人を探しているのだが、それだけでは我慢ならず、今月末にはウイグル自治区のウルムチを訪れるという。こちらの女性もかなりの強者である。
彼女たちのおかげで、楽しい待ちぼうけを過ごすことができた。筆者はバンコクで降りるので、機内でお別れ。また手紙を送る人が増えてしまった。全くもって嬉しい誤算である。なお、お二人のうちのアジアフリークの方はアジア旅行サイトを運営されている関係でその後もTwitterで仲良くさせて頂いている。(2021年6月追記:今でも繋がっている!)
さて、こうして心安らかに「光り輝く島」に別れを告げられるはずが、最後にとんでもない置き土産を残してきてしまったことに気づく。なんと、「メガネ」をニゴンボのゲストハウスのベッドサイドに献上してきてしまったのである。昼間は使い捨てコンタクトレンズを使用しているのだが、メガネが無ければずっとコンタクトを装着しっ放しにしていなければならない。これは何とも憂鬱な話である。目が乾く、目が乾く、と唱えながらインド洋を渡らなければならない。
しかしこれもかつてジャヤワルダナ氏が片目の角膜を日本人に提供してくれた事へのお礼だと思えば安いものだろうか・・・
ああ、さよならスリランカ、目が乾いて涙も出ないぜスリランカ・・・。
CASIO COMPUTER CO.,LTD EX-P600 (7.1mm, f/2.8, 1/30 sec, ISO0)
[2004.10.2~3]
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