1か月弱に渡る初めての単独バックパック旅の記録が完結した。
学生が一人でインドからバンコクを経てカンボジアへ渡る旅、何だか大層な事をやってのけた様な気分になったものだが、アンコール・ワットやタージ・マハルの写真を見ながらそれらの千年に渡る歴史に思いを馳せてしまえば、筆者の旅など大海を彷徨うシラスが如く何ともちっぽけな話だ。
筆者の様なシラスの如きちっぽけな旅行者が世界の歴史から感銘を受けられる様に、それらの千年の偉業を保存する闘いが行われて来た。
千年前の偉業を遺す闘いは、偉大なる自然との闘いだった
かつてアンコール王朝の王は自ら「宇宙の中心」たるバイヨン寺院を建立した。
かつてムガル帝国の王はその妃のためにタージ・マハルという巨大な大理石の墓を造り上げた。
数百年~千年もの昔の話である。そのような昔にこれほどの壮大な建築をやってのけるなど、人知というのは底が知れない。そしてそれらは、現代の我々から見ても後世に遺(のこ)していく価値があり、実際に遺すための闘いを人類は行ってきた。
この千年の間に、偉大なるアンコールの遺跡群はジャングルに飲み込まれつつあった。実際にこの目で、巨大なスポアンの根によって半壊し、自然の姿に還って行こうとしている人工物の姿を目にしてきた。
人類は瞬く間に壮大な建築物を創造する事が出来るが、ひとたびその維持の手を止めてしまえば、自然はいとも簡単に(時間は掛かるが)元の姿に戻してしまうだけの力を持っている。人類は歴史の記憶を残すべく、微力ながらそれに抗ってきた。
しかしこれからの千年は闘う相手が違う
しかし、それはこれまでの千年の話だ。これからの千年は少し話が違ってくる。
それは、人類が人工物を建設するスピードが、自然が人工物を元の姿に還すスピードを大きく上回る時代がやって来たためだ。アンコールを侵食してきたスポアンの大樹そのものを我々人類が根絶やしにしてしまい兼ねないのがこれからの千年だ。
現代の我々が未来に遺せるもの。
これからの千年は、偉大な建築はほどほどでいい。
アンコール・ワットは千年前に造られたから偉大なのであって、現代の技術で作っても大して褒められるものではない。バイヨンは当時真顔で「宇宙の中心」を称したから物語と共に語り継がれるのであって、現代にはそこまでスピリチュアルな宗教観はない。一人の妃のために巨大な大理石の墓を建てるような絶対王権的ヒロイズムも、現代には似合わない。
※実際、現代建築の世界遺産は1979年竣工のシドニーのオペラハウス以降のものは無いようだ。
現代の我々が千年後の未来に遺せるもの。
これまでのようにそれらの人類の歴史的叡智を守りつつ、これからの千年は、この地球そのものを未来に遺せるかどうかという闘いが人類の歴史そのものになり、その勝利のマイルストーンの一つ一つが、功績として未来に語り継がれるのだ。
どんな「SDGs的世界遺産」を生み出していけるか、それが勘所だ
何だかカッコつけてしまったが、それは結局のところ国連やUNESCOが近年掲げている「SDGs(持続可能な開発目標)」という考え方にシンクロする。つまりこれから登録されていく現代的世界遺産には、少なからずSDGsの考え方が影響する事だろう。
つまり、環境問題を始めとする世界的な問題に世界ぐるみで対処しつつ、長期的に持続可能な世の中を実現していこうという話なのだが、世界遺産の認定においてもそうした考えに寄与するかどうかがポイントの一つになって来るのは間違いない。
そんな中で自分には一体何が出来るのだろう、と考えると途端にこの記事をゴミ箱へ放り込みたくなってしまうが、出来る事はあるに違いない。
例えばUNESCOが掲げるESD(持続可能な開発のための教育)という考え方がある。要はSDGsの考え方を教育に取り込んでいこうというものだ。
キャンプなどを通じて子供たちを自然に触れさせ、自然の素晴らしさを感じてもらう事だって大事なESDだと思っている(割と本気で思っている)。
仕事はずっとITで社会の仕組みを変える事を生業としているが、それだって長い目で見ればSDGsに繋がると思ってやっている(今はIT機器の電力消費の問題などがあるけれど)。
一朝一夕に世の中に影響を及ぼす様な事は出来ないけれど、自分のちっぽけな活動が回りまわって地球の未来に繋がるような何かに貢献できるように、そしてそれが数百年後、千年後に過去の歴史の転換点として笑顔で語られるように、コツコツと遺していけたら素晴らしいと思う。
[2020年8月2日]
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